2016/08/03
人間が社会生活を送る上で、周りの環境や人間にある程度合わせることは大切なことです。
ですがそれも度を過ぎると、今度は自分の意見や気持ちがなくなってしまうことにもなりかねません。
この「自分の気持ちを抑えてでも人に合わせる」ことを迎合(げいごう)と言います。
辞書には次のように表記されています。
自分の考えをまげても、他人の意に従って気に入られるようにすること。
人に合わせるという意味では同様の言葉である協調性は必要なものとしても、迎合は必ずしも必要なものではないと思います。
迎合ありきで成り立っている関係性は見なおす必要があるでしょう。
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世渡り上手≒迎合?
迎合の類義語としては、八方美人、イエスマン、ご機嫌取りをする、太鼓持ちをするetc…
といったものがあるようです。
つまりこれまでの常識として、サラリーマン生活をうまく生き抜いていくためには必要なことでもあるだろうし、実際に世渡り上手と呼ばれる人の中にはこれらの特性を持っている人も多いことでしょう。
ですが時に迎合は自分を苦しめることにもなります。
周りの人間がみんな思いやりがあって協力してやっていこうという前提であれば、迎合することに何も問題はないです。
ただ、迎合する人を利用してやろうという存在がいた場合は別です。
あなたが合わせてくれるのを良いことに、都合良く扱ってくる人間は社会に一定数存在します。
もしそういった人間に出くわした場合、あなたは相手の要求を飲んでいく内に、どんどん自分の気持ちを押しころすことになっていくでしょう。
迎合する人というのは、温厚で争いを嫌うやさしい人間が多いです。人に嫌われたくないという気持ちも人一倍強く持っているはずです。
その穏やかな性格の元、あなたがいくら良好な人間関係を保つためにガマンを繰り返したところで、相手にとっては都合の良い存在の一人に過ぎません。
都合の良い存在というのは、たしかに嫌われることはありません。が、尊重されることもないのです。
自分を押しころしてまで合わせた結果がそんなザマなら、迎合なんてしない方が良いと思いませんか?
「迎合しない=敵対」ではない
迎合をやめるというと、相手に合わせる気がまったくないという意味で自分勝手な印象を抱いてしまうかもしれません。
また、自分に合わせない人のことを敵対視する人も中にはいるかもしれませんね。
でも僕は、相手の考えに合わせないということは、相手を否定することではないと思います。
人の思想や価値観は多様で、自分は自分の考えを尊重していいし、相手の考えも尊重して理解すれば良いと思っています。
一旦は受け入れて、良い所は取り入れていく。シンプルにそれで良い。
ところが世の中には「合わせない=否定された」と考える人がけっこうな割合でいます。
物事を0か100、敵か味方かでしか判断できないのかもしれません。
迎合しないという選択をする場合、こういった人たちには理解されないかもしれないということも覚えておかなくてはなりません。
…でもよく考えてみてください。
迎合をやめた時に、途端に相手の態度や様子が変わるということは、都合良く合わせていたあなたを見ているだけで、本当のあなたを見ているわけではなかったということです。
そんな100均に売ってる半紙みたいなペラッペラの関係になんの意味がありますか?
そんな茶番を維持するために心と時間を浪費するのはもったいないですよ。
本来の自分を出していって、それでも続く人間関係こそ大切にしていけば良いのです。
最低限の協調性を保つことは大切ですが、自分を抑えてまで相手に合わせる必要はありません。
というわけで…
もっと気楽に行こうぜ〜(`・ω・´)
ってことで締めときます。